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東北本線の鉄道敷設を建議した高島嘉右衛門翁

最終更新日:2020年12月1日
開業130周年の盛岡駅
開業130周年の盛岡駅
壮時の高島嘉右衛門翁(呑象 同翁伝より)
壮時の高島嘉右衛門翁
(呑象 同翁伝より)

JR東北本線一ノ関-盛岡駅間は11月1日に開業130周年を迎えました。始まりは、1872(明治5)年に実業家高島嘉右衛門による東京以北の鉄道敷設を右大臣岩倉具視に建議し岩倉が政府に提言したことに遡ります。

高島は1832(天保3)年江戸に生まれ、開港間もない横浜で財を成し「高島易断」でも名を馳せました。建議と同じ明治5年に開通した新橋―横浜間の鉄道敷設では、現在の横浜駅北部から桜木町駅南部一帯の埋立事業を行い横浜の市街地を形成するなど鉄道による発展に貢献しました。

建議による鉄道敷設は財政難などで頓挫しますが、賛同する岩倉ほか旧大名華族等による建設運動により日本初の私鉄「日本鉄道会社」が81(明治14)年に設立されました。その2年後の上野—大宮駅間の開業を皮切りに、90(明治23)年4月に一ノ関駅、そして11月に盛岡駅まで開業し、翌年青森駅まで全線開通した後国有化され、1909(明治42)年に東北本線に改称されました。

さて、建議した高島ですが、父は江戸後期 常陸 ひたち のくに (現在の茨城県)から江戸に出た材木商で建築も営み盛岡藩や佐賀藩の江戸屋敷に出入りしていました。父の死後佐賀藩に見込まれ、外国人相手に特産の伊万里焼の販売を始めますが、その際ご禁制の外国の銀貨と小判を交換した罪で投獄されます。しかし、牢の畳の間から易経を見つけ暗誦し易断を体得すると、獄中で高い的中率を誇るようになりました。

そして服役を終え横浜に移るとイギリス公使館建築が縁で外国人の建物建築で頭角を現し、その後の事業も易断に従い、皆成功を収めました。

また戊辰戦争後白石に転封された盛岡藩から「盛岡復帰に政府から70万両が必要」とされたとの相談を受け、政府との交渉に尽力し藩の備蓄米他全ての財産を処分し上納させる一方、飢えに瀕した領民の窮状を訴え不足分を免除されるなど復帰に貢献しました。

その後、盛岡藩を救うため、横浜を出港し石巻に到着後、陸路盛岡に救援米を運びますが、その道中が難儀しました。この経験が高速で大量輸送が可能な鉄道の東北敷設建議の要因のひとつとなったのかもしれません。

(岩手経済研究2020年11月号で紹介)