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奥寺堰と奥寺神社

最終更新日:2020年10月1日
現在の奥寺堰
現在の奥寺堰
奥寺神社
奥寺神社

県のほぼ中央に位置する北上市中心部の西には、北上川に注ぐ和賀川に沿って平野が広がり、県内有数の田園地帯となっています。

全長約80㎞の和賀川は、奥羽山脈の水を集め肥沃な大地を拡げながら北上川に向け東流していますが、北側一帯は川の水位より高い台地が続いており、江戸時代初期までは川から水が引けず、ススキがなびく荒野が一面に広がっていました。この荒野を農地に変えたのが台地を二手に分かれて流れる「奥寺堰」です。

奥寺堰は今から約340年前、延宝7(1679)年に奥寺八左衛門定恒によって開削された疎水です。定恒は陸奥国津軽郡奥寺村(現在の青森市浪岡)の出身で、父は津軽藩に仕え鉄砲を製造していましたが、藩内の抗争の末花巻城下に逃れ、その後の軍功により南部藩に仕えることになりました。定恒も父に倣い鉄砲の製造や砲術に長けていたことから当時の藩主南部重信公の砲術指南を務めました。

当時藩では、銅山開発や北上川の治水事業とともに新田開発を推進しており、重信公は定恒に藩の最南端に広がる広大な台地の新田開発を命じ、寛文5(1665)年に着工しました。

しかし、台地は高いうえ勾配が少なく何度も失敗しましたが、和賀川上流の山を掘り隧道を造り、穴堰を通して上水し、水路のいたるところに止水の堰を造り水位を上げるなど14年の歳月の末、 上堰 うわせき 下堰 したせき の2本の用水路を経由した灌漑が可能となりました。

穴堰の掘削には秋田藩の阿仁銅山の鉱山師2名を招いたほか、近隣の農民や藩の囚人も動員しましたが、その間の資金は定恒が北海道松前藩の砲術指南を務め藩内の騒動を治めた功で松前公より調達した3千両を充てました。

奥寺堰は大正9(1920)年に県営の改修工事が行われましたが、その間約240年にわたりそのまま活用されたことは、この事業の完成度の高さを物語っています。

台地の中ほどには定恒の偉業を称え、地域の人達により建立された奥寺神社があり、御祭神として祀られています。

  • 問合せ先:岩手中部土地改良区
  • TEL:0197-73-8280

(岩手経済研究2020年9月号で紹介)