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上ノ橋擬宝珠

最終更新日:2020年9月1日
盛岡の拡大発展を願い最初に架けられた上ノ橋
盛岡の拡大発展を願い最初に架けられた上ノ橋
現在の黄金橋(青森県三戸町)
現在の黄金橋(青森県三戸町)

盛岡市内を流れる中津川。この川に架かる橋のひとつに上ノ橋があります。南部家26代当主で盛岡藩初代藩主南部信直公が盛岡城築城にかかると程なく病死し、後を継いだ二代利直公が慶長14(1609)年、川に囲まれた要害の地盛岡の城下発展に向け架けた最初の橋です。

橋の欄干には慶長14年製と16年製の日本最古級の青銅製擬宝珠が18個取り付けてありますが、その由来を紐解くと更に3百年ほど遡ります。

南部家12代当主で 三戸 さんのへ を居城としていた南部政行公(1328-88)が京都参上の折、秋に鳴くはずの鹿の鳴き声が春の夕暮れに聞こえると、将軍足利義満は不吉な季節外れの鳴き声が招く凶兆を払おうと、「春鹿」の題で諸将に和歌を求めました。それに呼応して、政行公は「春霞 秋立つ霧にまがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん(春霞を秋の霧と間違え鹿が鳴きだしたのでしょう。不吉なこととは思われません)」と詠じると、鹿が鳴き止んだといわれます。

秀逸な歌として朝廷に奉られると、感嘆した後村上天皇は政行公を従四位 近衛 こんえの 少将 しょうしょう に任じ、都の風情を在所に持ち帰れるよう鴨川に架かる三条大橋の擬宝珠を模すことを許します。政行公は三戸に戻るや藩内を流れる熊原川に 黄金 きがね 橋を架け、擬宝珠を あつら えました。

この故事に倣い利直公は伝統と格式ある黄金橋擬宝珠を 鋳直 いなお しのうえ上ノ橋に移して取り付けました。その後幾度かの洪水で橋は流されましたが、擬宝珠はその都度捜し出され、明治43年の洪水で流失した際には下流の中ノ橋のものが鋳直され補われています。

第二次大戦中には金属が不足し擬宝珠が供出されそうになりましたが、盛岡の実業家で郷土史家の太田孝太郎氏の尽力で、急遽、国の重要美術品に認定されて供出を免れました。

幾多の災禍を経て、上ノ橋擬宝珠は京の風情を今に残し、城下町盛岡の風景に溶け込んで清流中津川に架かります。

  • 問合せ先:盛岡市教育委員会事務局歴史文化課
  • TEL:019-639-9067

(岩手経済研究2020年8月号で紹介)