西塔幸子記念館 ~宮古市~

最終更新日:2019年4月1日
西塔幸子記念館 ~宮古市~
西塔幸子記念館
(写真提供:宮古市川井総合事務所)
西塔幸子生誕の地(矢巾町)
西塔幸子生誕の地(矢巾町)

岩手の三陸沿岸北部などで教鞭をとる傍ら歌を詠み続けた西塔さいとう幸子こうこという歌人がいます。幸子は、明治33(1900)年に現在の矢巾町白沢に生まれ、教師としてへき地教育に一生を捧げましたが、その遺稿歌集「山峡やまかい」は厳しい生活を題材としたもので苦悩を実直に表現する内容が反響を呼びました。

教師生活は、大正8(1919)年に岩手師範学校を卒業して赴任した久慈尋常高等小学校に始まります。その後は、中野(洋野町)、山田(山田町)、二升にしょういし(岩泉町)などの各尋常高等小学校のほか、沼袋尋常小学校(田野畑村)を経て、昭和9年に江繋えつなぎ尋常小学校(宮古市)へ移ります。転勤の際は赴く先々で峠越えに難渋したほか、沼袋では昭和三陸津波で被災して孤立した村の窮状を新聞に訴え、広く人々に助けを求めました。

また、私生活では教師となった翌年に結婚して子宝に恵まれましたが、長女の夭逝や夫の酒乱など苦難が続きます。その後、昭和11年に体調を崩して入院し、7人の子を残して35歳で亡くなりました。幸子が病に倒れ終焉の地となった旧江繋尋常小学校跡地には記念館が建てられています。

亡くなる前年の昭和10年には、幸子がNHK仙台放送局の「教育者の体験談」に応募した「ある日の出来事」が放送され、幸子が広く世に出る機会となりました。また、同年11月17日に山田尋常高等小学校で催された山田線の宮古-山田間の開通記念式典で講演し、歌を詠みました。

「その昔わが教鞭をとりにけるこの学び舎に来るうれしさ」
「硝子戸も壁も柱もなつかしく一つ一つにものを言いたし」
あまつ日は光り輝き町人の歓呼のなかに汽車開通す」

来る3月23日には東日本大震災で不通となっていた宮古‐釜石間が復旧し、三陸鉄道リアス線としてスタートします。三陸鉄道の源流は、明治29(1896)年の明治三陸大津波からの復興策「三陸縦貫鉄道構想」に遡ります。鉄道があれば幸子の幾度もの峠越えや津波による村の孤立も緩和されたことでしょう。今回の鉄道再開で再びあがる住民の歓呼の声を幸子に届けたいと思わずにはいられません。

  • 館内案内(問合せ先):西塔幸子記念館事務局(宮古市江繋地域振興センター内)
  • TEL:0193-78-2705

(岩手経済研究2019年3月号で紹介)

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